戸田 正憲(北海道大学低温科学研究所)
人類のみならずこの地球上の全ての生物は,生態系が提供するさまざまな物質とサービスの恩恵を受けて生存してきた.そして,そのような健全な生態系は,複雑な生息環境構造のもとでの多様な生物の間の相互作用を通じて維持されている.ところが近年,人類活動の影響によって,生命史上かつてない規模とスピードで生物種の絶滅が引き起こされてきた.そのような生物多様性の大量喪失が生態系機能の低下を招き,劣化した生態系は多様な生物を保持する能力を失い,それがさらなる生態系の劣化を招くという最悪のシナリオ, “Ecosystem deg ra da tion spiral” ,が強く懸念されている.
このような最悪のシナリオはどのような条件で進行するのか,またそれをくいとめるためにはどのような方策が必要なのか,その科学的基盤を構築するために,1991年から生物多様性国際共同研究計画(DIVERSITAS: An International Programme of Biodiversity Science; http://www.icsu.org/diversitas/)がスタートし,今年からその第3期目に入ろうとしている.その中で,日本の生態学者は,健全な生態系を維持する機構として,多様な生物の相互作用と複雑な生息環境構造からなる「生態複合」という概念を提出し,その特性と機能を研究してきた.また,こうした研究をアジア・オセアニア地域に展開するためのネットワーク,西太平洋・アジア地域生物多様性国際研究ネットワーク(DIWPA: In ter na tion al Network for DIVERSITAS in Western Pacific and Asia; http://ecology.kyoto-u.ac.jp/~gaku/diwpaindex.html),を組織し,21世紀スタート時点で存続している生物多様性の一斉観測,国際生物多様性観測年(IBOY: International Biodiversity Observation Year; http://www.nrel.colostate.edu/IBOY/index2.html#home_top),を提案した.この提案は,DIVERSITASによって採用され,現在,47のコアープロジェクトと49のサテライトプロジェクトが2001年から2002年にかけて実行されつつある.
IBOY提案の基となったプロジェクト,DIWPA-IBOYでは,基準化した観測方法により,西太平洋・アジアの広域で,サイト横断的に比較可能な生物多様性情報を2001〜2003年の3年間をかけて収集することを目指している.しかしそこでは,全ての生物の多様性を観測するわけではなく,あくまでいくつかの生態系機能と関係が深いと考えられる生物群にしぼって観測が行われる.生態系機能の評価は,基本的に有機物現存量と物質・エネルギーのフローを量ることである.そのためには,生物多様性も単に要素(生態機能群,種など)の多様性だけではなく,その相対量も観測しなければならない.つまり,定量的にサンプリングされた大量の個体の同定が必要になる.はたして分類学者はそんな大変な仕事を引き受けてくれるのだろうか?
DIWPA-IBOYのもう1つの特徴は,各観測サイトの自主性と対等な関係である.そのため,得られる標本と1次データの管理は,各サイトに任される.近年,生物資源ナショナリズムが高まっている発展途上国が主体となるこのプロジェクトでは,従来の先進国一局集中型(言わば略奪型)の標本・データ管理はもはや機能しないばかりか,これからの生物多様性科学の発展にとって有害でさえある.しかし,各サイトでの標本・データ管理といっても,ことはそう簡単ではない.地球上の生物多様性の分布とそれを研究するキャパシティーの間には,皮肉な逆比例の関係がある.最も生物多様性の高い熱帯域では,生物多様性科学を推進する人も施設もノウハウも極めて不足している(先進国と言えども充分ではないが).この不足を早急に補強するための国際的な活動が既に始まっている(BioNET-INTERNATIONAL: Global Network For Taxonomy; http://www.bionet-intl.orgなど).
DIWPAでは,これまで生物多様性科学キャパシティービルディングの一助として,いくつかの参加国で,IBOY調査法の講習をはじめとして,生物多様性や生態に関する野外生物学コースを開催してきた.また,IBOY調査法マニュアルも近々出版される予定である(PDFファイルは以下のウェッブサイトで公開:http://ecology.kyoto-u.ac.jp/~gaku/iboyindex.htm).これからは,集まってくる膨大なサンプルをソートし同定するためのキャパシティービルディングに着手しなければならない.いよいよ分類学者との共同が不可欠である.
まずは,人を育てなければならない.東南アジア各国では,グローバルスタンダードで新種を独力で記載できる専門の分類学者も極めて不足しているが,その前に,IBOYのような定量的サンプリングで得られる大量のサンプルを,科あるいは属レベルまで正確に分類し,標本を適切に永く保存・管理できるテクニシャン(パラタクソノミスト)を養成する必要がある.未ソートのサンプルは,分類学者にとってゴミにも等しいが,科あるいは属までソートされ適切に保存されている標本は,宝の山となる.また,生態学的には,種まで同定できなくても,生態的機能群に分類されたデータで,生物多様性と生態系機能に関するラピッドアセスメントが可能となる.DIWPA-IBOYでは,そのような分類学トレーニングコースを今年から計画している.実は,同じような主旨のトレーニングコースが,ヨーロッパ連合の出資で活動しているARCBC (Asian Regional Conservation Biodiversity Center)によって,ASEAN各国の学部卒学生を対象に,今年からインドネシアで計画されている.しかも,優秀な学生には奨学金を供与して,講師の所属するヨーロッパの研究機関で大学院教育を受け,専門の研究者となる道まで用意し,将来の共同研究の継続まで見据えた息の長い,本格的な計画である.どのような方法でも,東南アジアに分類学者が育つことは大歓迎である.生物相の類縁の深い,日本の分類学者もこれまで個々人の努力で東南アジアの若手分類学者の育成に努めてきたわけであるが,そろそろその力を結集して,組織だって長期的な育成システムを立ち上げなければ,依然として一流半の科学先進国との評価を脱しきれないのではないだろうか.
次は「箱物」である.「箱物」海外協力の弊害は,おりおり耳にするところであるが,生物標本の保存施設の充実は不可欠である(日本においても).特に,高温多湿の熱帯域では,きちんとした保存施設が無い場合,標本はあっという間に使い物にならなくなってしまう. 1995年からインドネシアで展開されているJICAのプロジェクト(BCP: Biodiversity Conservation Project; http://www.bcpjica.org/)の実績を参考に,いろいろな研究機関の標本保存庫の改修,充実に資金を提供するようなプロジェクトを,今回設立された日本分類学会連合が後押ししていただけないだろうか.
分類学のキャパシティービルディングに必要なもう1つのものは,情報である.分類学の研究には,大量の情報を必要とする.標本に関する情報,文献に関する情報,これらは往々にして個々の分類学者の研究室奥深く秘蔵され,外部からのアクセスが難しかった.これまで,分類学を志す若い学徒の多くがこれらの情報を自分のものとするために多大のエネルギーを使わなければならなかった.そして,彼らが大家になると,なぜかそれを秘蔵してしまうのである.これらの貴重な情報は,持ち主が死ぬと,若い研究者に伝えられることなく,そのまま埋もれ,いつかは四散してしまったことも少なくなかったのではなかろうか.さらに,分類学者の頭の中には,通常の印刷物では表現できない,膨大な有用な情報が詰まっている(私でさえ,1000種近くのショウジョウバエをちょっと見ただけで,ほぼ同定できる).これらの情報も火葬場の煙突から煙となって消えてしまうのである.科学とは,知識と情報の伝達である.他の分野ではちょっと考えられないこの非能率を克服しない限り,分類学に明日は無いものと思わなければならない.幸い,コンピュータと情報科学の発達により,これを克服する道が拓けてきた.既に,いくつかの国際的な取り組みが始まっている(GBIF: Global Biodiversity In for ma tion Facility; http://www.gbif.org/など).多くの分類学者が生物多様性情報学者と協力して,各種のデータベースの構築,コンピュータを利用した分類検索システムの構築に尽力されることを期待したい.
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