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分子データと記載分類

上島 励(東京大学大学院理学系研究科)


 分類学は,種を識別し記載するα分類から始まり,類縁関係を調べ体系化するβ分類,種分化や進化のメカニズムを解明するγ分類へと進展していく.これらの段階を包括した広義の分類学的研究は,かつては形態情報のみに基づいて行われていた.しかし,形態分類には,主観的あるいは恣意的になりがちであるという問題があり,特にβ分類やγ分類においてこれは致命的な問題であった.一方,近年の分子生物学の発展に伴い,分子データを用いて生物間の類縁関係を客観的に推定する分子系統学や,形態変化にどのような遺伝子が関与しているのかを分子レベルで探る分子発生進化学などの新しい分野が著しい発展を遂げてきた.分子生物学的技術,知見を導入することによって,かつて自然科学でないとすら言われた分類学は,客観的で信頼性の高い研究分野へと生まれ変わりつつある.この状況を鑑みるに,これからの分類学は分子レベルでの研究を主体にした進化生物学を目指すものとなろう.

 しかし,地球上に存在する膨大な生物種の中で現実に分子レベルで研究されている分類群はごく一部に過ぎない.様々な分類群で莫大な数の未記載種が残されており,

多くの分類学者は依然として形態にもとづく記載分類に従事せざるを得ない状況にある.地球上に生息する多くの生物種が絶滅しつつある今,最先端の分子レベルでの研究で深く掘り下げていくのと同様に,より多くの分類群の記載分類を行うことは必要不可欠である.また,分類学者自体が絶滅に瀕している現状を考えると,記載分類を全分類群に渡って進めることは急務である.記載分類は今後も分類学の極めて重要な課題であり続けるであろう.ここでは,今なお分類学の主要な分野である記載分類(形態分類)の問題点とその展望について述べたい.

 記載分類(形態分類)の基本的概念は「形態変異の不連続性を認識し,命名する」ことである.しかし,この行為には古くから主観的,恣意的との批判が浴びせられてきた.例えば,形態の変異性が高く,表現型が連続的 に変化する場合,不連続性を見いだすことは困難を極め,しばしば,研究者間での意見の食い違いを生む.これが

恣意的,主観的と言われる由縁である.このような場合でも,分子遺伝学的解析を行うことにより,遺伝的に分化した分類群を客観的に区別し,それに対応した形態の違いを認識することにより信頼性の高い記載分類を行うことが可能である.また,形態からは識別できなかった同胞種を認識できることもある.さらに,表現型に明瞭な違いがあるにも関わらず,分子系統解析を行った結果,それが種内に過ぎないことが判明するケースもある.種レベル分類群を正しく認識するためには分子遺伝解析は必須である.

 形態データから系統関係を類推するための方法として分岐分類学的手法が用いられてきたが,表現型と遺伝子型が対応していない場合や,多数の形態形質が急激に変化した場合には,系統推定を誤る危険性が高い.しかし,このような場合でも分子データを用いれば,信頼性の高い系統推定が可能である.

 このように分子遺伝解析は種レベル分類群の認識,系統推定のいずれにおいても形態分類よりも優れている.しかし一方で,形態には分子にはない多くの利点があり,

形態分類を捨て去ることはできない.例えば,化石との比較を行う際や,形態形質しか利用できない場合には,形態分類は必須である.また,個体群動態や行動などを調べる際には,全ての対象個体の遺伝子型を調べることは事実上不可能であり,形態形質が最も有効なマーカーとなる.

 従って,これからの記載分類において形態と分子遺伝学的解析の両面からのアプローチが不可欠である.これまでの分類学研究の流れは,1) 形態に基づき種を識別,

認識する;2) 形態に基づいて系統関係を推定し,体系化する;3) 分子データにより形態分類を検証する; 4) 分子データとの矛盾点について形態データを見直す;5) 分類体系の再編成をする;という段階で進んで来た.しかし,記載分類と分子遺伝解析を同時並行できれば,一気に段階5) まで達することが可能である.これは研究時間の短縮になるだけでなく,分類学者自信が絶滅に瀕している社会的状況では,数少ない分類学者の人的資源を有効利用する上でも重要である.また,形態分類は研究内容の信頼性を第三者が評価することが困難であったが,分子データを併用することによって分類体系の信頼性を格段に向上することができる.多様性の保全の重要性が

社会的にも認識されてきた今,分類学者には,PL法のごとく信頼できる分類体系を提示する義務が課せられているのである.このように形態分類と分子系統解析の同時並行は多くのメリットがあるが,分子系統解析には特殊な設備や技術を要するため,記載分類に従事している個々の分類学者が簡単にはできないのが現状である.そこで,これを解決するために,塩基配列決定から系統推定までサポートしてくれる「分子系統解析センター」を設立し,分類学者はDNA資料を送れば分子系統解析の結果を見て分類体系の構築に利用できる状況を作ることが必要である.また,分類学者自信が標本採集と平行してDNA資料の体系的収集を行い,それを博物館等の公的機関で保存することも必要である.日本分類学会連合には「分子系統解析センター」設立と,α分類への今まで以上のサポートを切に願う.そして,全ての分類群で形態と分子の両面から明らかにしていけるよう,我々も努力を進めていく必要がある.