荒俣 宏
私は子供の頃から博物学が好きでしたが,その後妖怪学など様々な事に関わり,あちこちのイベントに出るようになりました.始めはごく少人数の「マニアック」な人たちの集まりで話をしていましたが,妖怪の会,陰陽道,風水など,博物学以外のジャンルの会はここ数年大きな様変わりをしました.どう変わったかというと,聴衆の第一列目には華やかな女性がずらっと並び,その後ろ二,三列に子供が並び,さらにその後ろに従来からきていたような本来の研究者やマニアが並ぶという構図になってきました.日々の生活に必要ではないこのようなテーマについてのポピュラリティーが非常に高まってきているのでしょう.
私は分類学に関係の深い出版社で仕事をしていますから,如何にそれぞれの分類学者の考え方が違っていて,ちょっとでも違うと大変なことになるということをよく知っていますので,あらゆるジャンルの分類学の方々が集まる分類学会の連合というのは,最初は無理ではないかと思っていました.少なくとも,無理を承知で今回連合を作られたというのは大変なことだと思います.できることなら,このシンポジウムでも先ほど話したような方々が前の方に並んでいたらすごいことになると思っていましたが,やっぱり分類学の方はそこまではいっていないようです.こういう話をするといやな顔をされるかも知れませんが,博物学や分類学,つまり生物に関連した非常に基本的な学問は,昔はそういうグループが救っていたのだということを,今日はまず申し上げたいと思います.
ご承知のように,19世紀の半ばぐらいにイギリスやフランスで急にナチュラルヒストリーが流行ってきました.生物学という言葉はありましたが,当時はナチュラルヒストリーという言い方が非常に重要で,その中身はほとんどが分類学でありました.それまでは一般市民にはほとんど関心を持たれなかったこのジャンルが,なぜこんなに栄えたのでしょうか.イギリスに例をとると,その理由は2つ挙げられます.ひとつは,ナチュラルヒストリーを楽しむコストが安くなったことです.とくにガラスの物品税が下がったことが大きい.水槽や温室が安くでき,一般の人々が外国の生物を身近において楽しむことができるようになりました.それまではナチュラルヒストリーをやるには非常にお金がかかりました.150年たった我が国でも,そのコストは依然として高いのですが,博物学が流行りだした頃は産業の力で大幅なコストダウンが実現し,その結果ナチュラルヒストリーの大ブームが始まったのです.このことは,分類学が学界の中だけではなく,一般の人のものの考え方に影響を与えて,「何か新しいものが見られるのではないか」という期待を抱かせたからではないかと考えられます.今でもそうですが,そういうことに一番敏感なのは実は女性あるいは子供たちで,このパワーが何かをスタートさせる時に非常に大きい役割を果たします.パリで世界初の気球が揚げられた時,大勢の女性が先を争うようにして乗り込んだように,女性は新しいものに対して貪欲でありました.それと同時に,博物学には非常に大きな利点がありました.たとえば顕微鏡をのぞくとそこにまた新しい世界があり,当時徐々に進歩していた系統分類学によって,猿とか人間とか様々な動物の一つのつながりが判ってきましたが,同様のことが我々自身つまり人間を考える大きな手がかりになりました.
こういう事を強力に押し進めた人物がフランスにも現れました.フランスにおけるナチュラルヒストリーの総本山になったビュフォンであります.ビュフォンと同時代のヒーローになったのがリンネで,二人とも分類学をやりましたが,両者の決定的な違いは人々に博物学を提示するディスプレーの仕方にあります.リンネの方法は,判りやすく合理的でなるべく早く結論を出すような,非常に有力な検索マシンを持ち込んだことです.自然の中で生物を見た我々を感動させ,次にああそうかと思わせるのに一番大きい力は,その生物がどんな名前か,どんな性質か,非常に大きい枠組みの中のこの位置にある,といったことを知らせることであります.そういったことを知るのに一番必要なのは今でいう検索エンジンで,リンネはそれを提供した一番最初の人物になりました.一方ビュフォンは,「文は人なり」という有名な言葉を残したように,文あるいは説明によって生物の面白さ,感動を伝えました.つまり,検索エンジンではなく,記述の力によって生物についての関心を高めるという方法をとったのです.いわば小説を読むように科学の論文が読めるという新しい方法を考えつきました.これに女性が殺到したのです.ビュフォンは,「博物学は,世の中が繁栄して,平和で,ハッピーな時代に発展するものだ」ということも言いましたが,これも当時の人々を博物学に引きつけたひとつの要因であります.血なまぐさい革命の時代のなかで,彼の「平和な学問」に人は強いインパクトを受けたのです.
このようにして,分類学をベースにしたナチュラルヒストリーは今から150年ほど前に非常に大きな力を待ちましたが,こういった現象だけを見ると今も似たような状況にあると思います.専門家ではない人が,世界のあちこちに出かけて自然を撮影し,テレビ番組や本を作ってしまいます.一般のユーザーはこれらを見て自然の面白さを知り,分類学的なものにも関心を持つようになるといった状況にあります.しかし残念なことに,このような人たちと分類学の専門家との間の関わりは,名前の問い合わせのようなごく基本的な事柄に過ぎないのです.このような関わりがさらに深まってくると,ちょうど150年前のような状況が生まれるのではないでしょうか.ブーム状態には一面ではマイナス面もあるが,さらに大きな新しい時代のものも出てくるのではないかと感じております.たとえば今,巷ではチョコエッグが流行っていますが,そのおまけについている動物のフィギュアはかなりリアルにできています.いまだに地球上の生物のごくわずかしか判っていないのですから,このようなオモチャを通して新発見の動物が学界に知られる前に世間でもてはやされると言うこともあるかも知れない.専門家はきっと相手にしないと思いますが,このような形での博物学の知見の広がりを無視することにどれほどのメリットがあるでしょうか.このようなものをどのくらい取り込めるか,あるいは協同を張れるか,美味しいところを使えるかというのはやはりギブアンドテークの問題だと思います.たとえば魚については,ダイバーが何だか分からない種類の魚を海中で目撃した場合,それを写真に撮って持ち込めるセンターがあって,そこで名前を教えてもらえると言うように便利になっています.このサービス,一般のユーザーに対しての繋がりは非常に大きな意味を持つようになるのではないかと思います.今は一般の興味がだんだん小さな生物にも向くようになっていますが,原始的なものになるほど,どこに聞けばいいのか分からなくなってきます.それぞれの学会はあるのでしょうが,何か統一ポータルのようなものがほしい.今,インターネットが活用されている最大の利点は,このポータルが出てきていることに よるんですね.つい数年前までは感と運を頼りに資料を探していたのが,今は強力な検索エンジンを伴ったポータルがずいぶんたくさん出てきて,様々なジャンルでこのようなものが利用できるようになっています.このようなポータルが学界の中にもないと,これからはかなり困るようになるのではないかと思います.そういう一番基本的な部分が,分類学の大きい役割になってくる.これでは政府から大きい予算は取れないかも知れませんが,ユーザーからみればそういうものが非常に重要ですから,一番基本的な作業になってくると思います.そうなると,この連合という形が大きい力になってくるでしょう.ただ大きい問題もあります.果たしてそういうポータルで皆仲良くやっていけるだろうか,と言うことです.仲良くできないのは昔からそうでした.たとえば,今は分類学などのすばらしいセンターになっているキューガーデンも,「キューがあるために植物学が面白くならない」と言われた時期がありました.博物学や分類学の権威を保つために,新しい学問や知見を押さえようとしたことから,かなり大きい批判を浴びたのです.このような権威主義は現代にも生きていて,それが一般に対して大きいマイナス要因になっているケースが見られます.私はそういう一種の権威,権力争いに巻き込まれて会社を辞めていった編集者を3人知っています.こういうことをなくすためには,やはりある程度の裾野の広がりができて,権威が集中しないようになることが,必要になるのではないでしょうか.
実は,分類学は確かに理科系の学問ですが,半分は文科系の学問です.なぜかというと,一般との接点というのは学名とか,英名とか,和名なんですね.生物の名称つまりコード体系は完全に理科系のジャンルかというとそうではなくて,一般的に言えば言語体系そのもの,日本語や英語あるいはそのほかの言葉の一つでなければ使い物になりません.このことでまたユーザーにとっては非常にやりにくい現象が起きてきます.ちょうど,パソコンのOSが新しくなると古いソフトが使えなくなるようなもので,そのたびに何か対応が必要になる.最初はそれぞれがそれなりの論理で名称を定めていたのでしょうが,これが微生物から脊椎動物までとなると,同じ日本語でありながら別の意味を持つようなものが大量に出てくるようになります.ものによっては動物学者からみると微生物学者の用語は分からん,というようなものもあるのではないでしょうか.プロでさえそうなのですから,一般ユーザーにとってはさらに分かりにくいでしょう.これは,人によって日本語のスタイルが相当違うのと,日本語の感覚や日本語に対しての取り上げ方の接点や立場が違うからだと思われます.和名を例にしましたが,これも日本語の体系として,いろんな学会の人がよってたかって国語審議会のようなものを開く必要がまずあるのではないかと思います.いま,動物名の規約のことを一生懸命やっていらっしゃる方は,ほとんど学名についてなんですね.昔,「Oh kiss me」をラテン語の綴りにした学名を付けた昆虫学者がいたように,命名というのは割と遊び心を発揮しやすい部分で,これはやっぱり文科なんだと思います.「Oh kiss me」を学名にしてもいいし,牧野(富太郎)さんのように奥さんの名前をくっつけてもいいのですが,あまりこういうものばかりになると,とくに学名なんかはバラバラの体系になってしまう.それらをどうするかというのは科学的な問題であると同時に,やはり文学的,国語的な問題であって,一般の人が分かる言語の使い方を考えていかないと,かなり難しいことになると思います.科学のジャンルでしかも一般にも分かるという,二つのジレンマを解決するには,別の才能や別のアイデアというものがおそらく必要になってくるのではないかという感じがしています.
最後に3つほど,私の考えるスローガンのようなものをユーザーの立場からお願いしたいと思います.まず第一は,「みんな仲良く,競って,分かち合おう」と言うことであります.昔,尾張博物学がこの分野の主流になったのは,その開祖とされる松平君山が彼の本草学に批判的なほかの学者まですべて仲間として受け入れてしまったからであります.このように,「仲良く,競い合い,分け合う」精神というものを,是非この学会連合の一つの特色にしていただければと思います.もう一つは,「より大きな世界と繋がろう」と言うことです.海外の研究者と手をつなぐのはもちろんですが,もう一つ重要なのはアマチュアであります.この世界の人々と繋がらないと,先ほど申し上げたように「チョコエッグで新種発表」というような,抜け駆けをされるケースがこれからどんどん出てくるのではないかと感じています.そのためには,より広い世界と繋がることが非常に重要で,それが実現できたときはこのようなシンポジウムで一列目に女性,二,三列に子供ということになるのではないかと思います.三番目は,これが最も重要ではないかと思うのですが,「古いものを大切にしよう」ということです.この古いものというのは,古い仕事や古い文献,古い施設などのことであります.タイプ標本を含めて何百万もある標本類を一人か二人で管理しているという例をみて驚いたことがあります.確かにポストが少なく予算がなく,したがって分類学者の数が少なくならざるを得ないことはよく分かります.しかし,これだけのものを管理するのは,一人や二人でははっきり言って無理です.だから,長い間手つかずになっている標本も多いし,ものによってはその間にどんどん劣化します.これをいったいどうするのか.これは是非,古いものを大切にする,あるいはそのことをアピールする必要性があると思います.このとき,たぶん皆さんはユーザーや在野の人間は当てにならないと思うでしょうが,これだけ一般の関心が高まっており,あるいは150年間のナチュラルヒストリーの進展を目の当たりにしたとき,おそらく一般の人々こそが今は心強い協力者になってくれるのではないかと思います.いま有り難いのはおそらく金銭的な協力でしょうが,マニアがたくさんいますから,人的資源として標本の整理を手伝ってもらってもいいじゃないですか.そのようなことを実際にやっていかないと,古いものを大切にできなくなってしまうのではないかと思います.古い研究者が集めた文献が整理されないまま倉庫に山積みになっていたり,標本の保管場所がなくてついに廃棄されたりという話はよく耳にします.大学や博物館にあるから安心だと思っていたら,実はそうでもない.多くのボランティアが協力してくれるようなシステムを作るには,今お話ししてきたように,たくさんの一般人に声をかけられる分類学者の育成や登場が待たれるのではないかと思います.私自身,必要があればどこかに駆け込んで大いに利用したいと考えています.そういうユーザーからの発想も含めることが,今はサービスという点で負担のように見えても,いずれは大きな財産になり,日本の分類学を底上げする力になってくると思います.身近なことに一喜一憂せずロングスパンで改革をしていこうという,小泉純一郎首相と同じような言葉を残して終わりにしたいと思います.どうもありがとうございました.
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