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植物科学のなかの植物分類学−植物生理学と植物分類学その今昔と21世紀への展望−

駒嶺穆(社団法人日本植物学会前会長・進化生物学研究所)

 まず日本分類学会連合の設立に心よりお祝いを申し上げる.私は日本植物学会の前会長としてよりも,植物生理学の一研究者として,植物生理学の側から見た昔の植物分類学はどの様なものであり,それが今はどの様に変貌しその未来はどの様になると期待されるかを述べてみたい.

 昔といっても40年くらい前の話である.私は東京大学理学部植物学教室の若い助手であった.その頃,一流企業の方が多いあるパーティーに出席する機会があった.その席上複数の企業の方から「ご専門は何ですか」ときかれた.私が「植物学です」と答えると,異口同音に「天皇陛下とご趣味が同じでよろしいですな」と言われた.当時の天皇陛下とは昭和天皇で,昭和天皇は敬愛する分類学者であるから私は光栄に思う一方「ご趣味が同じ」といわれたのには,いささか抵抗があった.何故なら植物学は私の趣味ではなく,一生を託した学問であったからである.このことは当時の社会では植物学とは分類学のことであり,それは雲の上の学問,趣味の学問と認識されていたことを示す私の貴重な経験であった.

 その当時の植物分類学は,例えば私が在学した東京大学理学部植物学教室では,どの様な状況であったかというと,植物学教室には植物分類学,植物形態学,植物生態学,植物生理学,植物生理化学,細胞学,遺伝学の諸講座があった.しかし,1学年10名足らずの大学院生の中で,95%以上が植物分類学以外の研究室に入り植物分類学の研究室に入る学生は何年かに1人という状況であった.最大の研究室は田宮博先生の植物生理学であった.(因みに私は服部静夫先生の植物生理化学の研究室に入門した.)当時の学部の学生室には植物生理学の若い研究者が遊びにきてさかんに植物分類学の次の様な批判をしていた.それらの批判は今の植物分類学者には当たっていないものもあるが,現代でも通ずるものもある.

○植物生理学の若い研究者たちは,植物分類学の研究者を当時“植物名に精通しているnaturalistの集団”というように批判的な眼で見ていた.個々の植物をきちんと同定できる研究者は現代においては特に貴重な存在である.しかし植物生理学の研究者は,植物学教室にいながら大部分の人が植物の名前を知らないので,それに精通している植物分類学の研究者達にコンプレックスを感じていた.それが逆に植物分類学を植物学教室の中でさえ“趣味の学問”として軽視するような風潮を作っていたのではないかと思う.

○植物分類学の研究者は,個々の植物群を個人レベルで研究して,自分の城を築き,他の研究者と積極的に交流することが少なかった.いわば群雄割拠的状況であった.これは現在も似た状況にあり,このたび個々の動植物群の名を冠した学会を統合して日本分類学会連合が設立されたのも,こうした分類学の状況を改革するために行われたものである.

○植物分類学の研究者と話をしたり研究の発表をきくと,classificationに対する主観的主張が強く,客観的な根拠に乏しかった.当時は形態のみをマーカーにした論拠がほとんどであったから植物生理学の側からは主観的な主張という印象が強かった.現在ではDNAレベルのマーカーがclassificationの有力な指標となったので事情は変わったとはいえ,分類学の研究者のこの傾向は今なお存在するように思う.

○植物生理学の研究者が植物分類学の研究者の例えば種分化に関する発表をきくと,話としては面白いが,Aという種がBという種から分化したという説の実験的根拠は,化石以外は当時は存在せず,実験結果を基に推論する植物生理学の研究者から見ると植物分類学は実験根拠の少ない科学という印象が強かった.しかしこれは次に述べるEvolutionary Developmental Bi ol o gyの誕生によって大きく転換した.

 さて周知の通り植物分類学そのものも社会の分類学への認識も最近大きく様変わりした.分子生物学の発展によりゲノムの実態が明らかになり,DNAレベルのマーカーを植物分類学の多くの研究者がとり入れ,植物生理学と植物分類学とは共通語で語れるようになったのである.バイオインフォマティックスの発展もこれに拍車をかけている.一方植物分類学の研究者が,種のマーカーとしていた植物のかたちの形成機構は植物生理学の研究者によって活発に分子レベルでの研究が進みそれを支配する遺伝子の解明がなされつつある.これをうけてEvo lu tion ary Developmental Biologyいわゆるエボデボが誕生し,急速に発展しつつある.すなわち,種のマーカーである形を作る遺伝子の種間での相違が明らかにされ,ゲノム上のどの塩基が変化すれば別の種のマーカーである形を発現するようになると推論することが可能となり,種分化の実験的証明もなされるかも知れない.こうしてかっては全く別の世界と考えられていた植物生理学と植物分類学とは一本の太いパイプによって結ばれつつある.

 また植物学,植物分類学を取り巻く社会状況も大きく変化した.地球環境の汚染はますます深刻化し,地球の緑の保全の中核をなす生物多様性も失われつつあり,21世紀には地球生命圏の危機がやってくるだろうとされている.この危機を克服するための基盤を与える植物分類学に対する社会の認識は,かっての雲の上の学問から地球の生命を救う学問へと変わり,社会の植物分類学に対する期待は大きい.

 植物科学の中にあっても例えばアメリカ植物生理学会がAmerican Society of Plant Biologistsと名前をかえ,その機関誌Plant Physiologyが最近Plant Biodiversity in the Age of Genomicsという特集号を出すなど,植物分類学が植物科学の中心となるtrendを感じさせている.

 この時期に日本分類学会連合が設立されたことは意義深く,その分類学のみならず生物科学への大きな貢献を期待したい.