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分類学と生態学との協同

川那部 浩哉(琵琶湖博物館館長)

 「日本動物分類学関連学会連合」が設立されたのは2000年1月8日,ちょうど2年と4日ばかり前のことだった.この設立を喜びつつも,「なぜ動物だけか」というのが,そのときの疑問だったが,それが,今回は一挙に「日本分類学会連合」の設立だと言う.中々の早業であって,先ずは何よりも改めて「おめでとう」と申しあげたい.

2年前にもシンポジウムに招いて頂いたので,そのときは後の雑談の種ぐらいにはなるかと思い,「一生態学者として私は分類学に何をもとめているか」の題で話題提供をしてみた.事前に書いたレジュメは,その『ニュースレター』の第1号に載っているが,今回の「日本分類学会連合」のおよそ半分の方々は,このときは関係のなかった「動物」以外の方の筈なので,以下に「さわり」だけを繰り返しておこう.

 率直に言って,日本でも世界でも,表面ではなく心の中で生態学研究者の多くがもとめているものは,「分類学者に同定をして欲しい」と言うことではあるまいか.そして,敢えて私流にねじ曲げて言えば,「分類学には何ももとめていない」のだ.これがまず最初の挑発であった.生態学研究者のほうは,「好きなことを言う」と呆れはしたものの,内心同意した人が多かったらしいが,分類学研究者のほうからは,とくに御意見を頂かなくて済んだ.いや,まことに残念なことに御意見を頂けなかったのである.

 このようには話したが,私は同定の仕事が重要でないと言ったのでは全くない.むしろ,「学としての生態学」以外に「生態学的なしごと」があるのと同様に,「学としての分類学」以外に「分類学的なしごと」がたくさんあり,それがまたたいへん重要であることについては,ひょっとすると分類学研究者以上に身にしみて知っているのではあるまいか.私などの少し前の世代の人々が大学から分類学講座を他のものに変えていったせいなのだが,分類・同定のできる人が全くといってよいほどなくなってしまった分類群が数多くある.そのことへの反省・慚愧を含めて「日本分類学会連合」にまず要請したいのは,各分類群ごとの分類学研究者名簿の作成,それも可能ならば,どの程度の腕前かを評価したうえでのものだ.次いで願いたいのは若手研究者の養成だが,敢えて言えば,自分のやっているのとは少し異なった分類群の研究者を育てて欲しい.そのことによって,「生物多様性保全」問題における分類学の役割が,一般の人々にもいっそう理解して貰えるのではあるまいか.

 ついでにもう一つ,余計なことかも知れないが言っておきたいことがある.それは,同定のできる人の就職口は,今や決して少なくないということだ.大学の教師になる機会は,当分の間少ないだろうし,博物館における学芸員に分類学の研究者を採用するところもまた,今のままでは少ないかも知れない.しかし,例えばアセスメント,それも計画アセスメントが進めば,いやそれが進むまでの現状においてすら,喉から手の出るほど欲しいのは,実は同定のできる人,見事にそれのできる人である.そこで広く大きく認められることは,また,大学や博物館における分類学の興隆に大きくつながるものである.「誰も採用してくれない」,「大切さが判って貰えない」というだけでは,ものごとは進まない.いや,逆効果になるのではないかと,敢えて苦言を呈しておく.

 ところで,生物多様性の重要な点の少なくとも1つは,基本的な「いのち」がなぜ,またどのようにして,これほどさまざまな「生きもの」を創りあげてきたかの機構だと,私は取り敢えず考えている.すなわち,ただ生物が多様に存在するというだけではなくて,「共通性が非常に多く見られるのに,何故こんなに多様になったのか」ということが,研究者のみならず一般の方々にも興味の持たれている理由ではないだろうか.そこからは,「分類学研究者は珍しい種に興味を示すのに対して,生態学研究者は多く存在している種を喜ぶ」とか,「分類学者は個別性にこだわるが,生態学者は一般性にこだわる」とかの,ときどき聞く風評の根拠は全く出てこない.だがこのように言えば,「共通性に関する一般法則」ではなく,「個別性に関する一般法則」,すなわち,「どうしてこれとこれとはこのように違うのかを説明する法則を」との,以前からこだわっていることへの,我田引水に過ぎると言われるかもしれない.それはとにかく,分類学は「同定の学」そのものではない.現在性の科学だけではどうにもならない自然における歴史性,これをあからさまに明示して,自然科学における「歴史」性の重要さを化学的にも哲学的にも打ち立てること,これが分類学の本質であろうと,私はつねに考えている.